教室に迎えた新しい「特等席」の主。寝台特急「なは」のヘッドマークで思うこと。

教室の一番目立つところに、新しく自慢の「特等席」ができました。 それが、こちらの寝台特急ブルートレイン「なは」のヘッドマークのレプリカです。

寝台特急「なは」ヘッドマークのレプリカ画像
ずっしりと重く、実際に手に持ってみると『なんだか良いもの!』という感じがひしひしと伝わってくる品です。

青い下地に南国を思わせる芭蕉の葉、そして鮮やかな黄色い文字。見ているだけで旅情をかき立てられるこの素敵な品を、「先生ならこの価値がわかると思って……。」と、三線の生徒さん(以降、Kさん)がプレゼントしてくださいました。

レトロな宝物を見つけ出すKさんと、安来の「亀尾商店」

このヘッドマークを届けてくださったKさんは、もともと「古いもの」や「郷愁を感じさせるもの」が大好きな方。

実は、Kさんのご実家は島根県安来市にある「亀尾商店」さんです。本に文房具、そして古い雑貨が所狭しと並ぶレトロな商店で、Kさんのお母様が今も大切に店を守っていらっしゃいます。

山陰まんなか観光局WEBサイト『ココビトの綴り』に特集された際のインスタグラム。なんと大正8年から続くお店!

こちらに古い写真もあります。

お店のインスタはこちら

そんなKさんが、宇部市にある「ときわ公園」のフリーマーケットでこのレプリカを発見。宇部教室にお持ちくださいました。

裏側の細かなリベットや、絶妙な塗装の剥げ具合を見ても、相当に古く、しかし本当に丁寧に作られたものだと分かります。
調べたところ、「当時の国鉄の重要な方々に、式典などで記念に少数配られた『本物のレプリカ(お土産屋さんなどで販売されていたペラペラの安物ではない)』」ということがわかりました。

寝台特急「なは」――沖縄への思いを乗せて走った列車

「なは」は、かつて関西と九州を結んでいた特急列車です。

1968(昭和43)年に大阪~西鹿児島(現在の鹿児島中央)間の昼行特急として登場し、1975(昭和50)年からは寝台特急として運転されるようになりました。その後、ブルートレインとして親しまれ、2008(平成20)年3月に運行を終了しました。

列車の名前に使われた「なは」は、沖縄県の那覇市に由来しています。

この名前が付けられた背景には、沖縄の日本復帰への願いがありました。当時、沖縄はまだアメリカの統治下にあり、琉球新報社などによる「本土に沖縄の名が付く列車を走らせよう」という取り組みの中で、列車名が公募されました。

こうして誕生した「なは」は、沖縄の名前を冠しながら、関西と九州を結ぶ列車として走り続けました。

(以上、「なは」のwikiより抜粋・編集)

実際に海を越えて那覇まで鉄道で行けたわけではありませんが、列車の名前には、沖縄と本土を結ぶ人々の思いが込められていたのですね。

在りし日の「なは」の写真をご覧になれます。

関西発着の寝台特急『なは』 : 線路は続くよどこまでも

寝台特急『なは』は1984年2月に、関西発着のブルートレインとして新大阪-西鹿児島間で運行が開始された。それ以前は583系電車特急であった。24系客車を使用し、牽引機は…

私の父は、昔、国鉄マンでした。

このヘッドマークを眺めていると、父の姿がふと頭をよぎります。

鉄道が大好きな人でした。

子どもの頃の私は、それが特別なことだとは思っていませんでした。

父が鉄道の仕事をしていることも、鉄道が好きなことも、私にとってはただ「父はそういう人」というだけのことだったのだと思います。

1987年、国鉄の民営化という大きな時代のうねりの中。
私は大学受験を控える高校生でした。
父は、自ら志願して転職を決意。猛勉強の末に裁判所の書記官という全く新しい世界へ飛び込み、そこから人生の再スタートを切りました。
私が深夜まで勉強をして、疲れて寝る準備をしていると、父の部屋からまだ灯りが漏れていたのを覚えています。

長く勤めてきた国鉄を離れて、まったく違う仕事を一から学び直す。
鉄道を愛する父が、家族のために決断したことでした。

私は父と、あまりたくさん話をするほうではありませんでした。

父が国鉄でどんな仕事をしていたのか。

転職を決めたとき、何を考えていたのか。

新しい仕事を始めて、どんな苦労があったのか。

今になってみると、聞いておけばよかったと思うことがたくさんあります。

けれど、そういう話をする機会も十分にないまま、父は病に倒れ、亡くなってしまいました。

だから、父について私が知っていることは、実はそれほど多くありません。

それでも、こうして思いがけないところから「国鉄」という言葉につながるものが目の前に現れ、昔のことに、父のことに、思いを馳せるきっかけとなりました。

国鉄の車掌の制帽をかぶって敬礼する4歳くらいの妹。
いきなり古い写真ですみません。
車掌をしていた父の制帽をかぶって、敬礼する妹。1979年(昭和54年)頃の写真です。

人生にはいろいろな「乗り換え」があるのだなと思います。

父が国鉄から裁判所へ移ったように、私自身も、昔から今の仕事をしていたわけではありません。

父と同じ時期に猛勉強した末、難関と言われる大学に無事進学したのに、今ではその専攻とはまったく関係のない三線を教えたり、演奏したり、楽譜を作ったり、ホームページを作ったりしながら仕事をしています。

昔の私が今の自分を見たら、苦言の一つも呈したくなるかもしれません。
でも、今の私は、昔の私に「それでいいのだ」と胸を張って言えます。
誰から強制されたわけでもなく、自分で選んで乗り換えながら旅をしてきたのだ、と。

そんなことを考えながら、いただいた「なは」のヘッドマークを眺めています。

テレビにも登場!みんなを見守る教室のシンボル

実は先日、ありがたいことにNHKの情報番組で私の教室をご紹介いただいたのですが……その放送の中でも、このヘッドマークがばっちり画面に映り込んでいました!

NHK山口「情報維新!やまぐち」のテレビ画面。生徒さんが「夢は老人ホームのスター」と言っています。
台本なしのインタビューなのに、咄嗟におもしろコメントが出せる生徒さん。すごい。

Kさんが繋いでくれたご縁の品が、私に父を思い出させ、教室の「顔」としてテレビにも登場し、温かい空気を運んできてくれる。

これからもこのヘッドマークは、教室の特等席から、私たちの歩みを見守り続けてくれることでしょう。

Kさん、ありがとうございました。